なぜ僕はキリスト教を棄教したのか?【1】【経緯編】
棄教したお話。
10代のころから35までキリスト教の教会通ってたんですね。
もちろん洗礼も受けました。僕はキリスト教の家庭に生まれたわけではないので自分の自由意志で洗礼を受けた。
でも、たぶんもう二度と教会はいかないと思う。
でも病気が悪化して僕は信仰を捨てました。結構棄教する人は多い。でも病気になって棄教する人ってあんまり見かけない気がする。
むしろ、宗教的に救ってほしくて信仰の道を選ぶ人は多い気がする。
キリスト教にもいろいろあって。
大きく分けるキリスト教にはカトリックとプロテスタントというのがある。
細かい分類をすることもできるのだけど、カトリックはローマ教皇とか、神父様とかが属するもの。
プロテスタントは牧師がいて、いわゆる結婚式で祈っている人が牧師先生がいるところです。
二つは似ているけど大きな違いがある。
カトリックは儀式的なものを重視する傾向にある。
プロテスタントは祈りを重視する傾向にある。
カトリックは法王を中心とした権威主義的、プロテスタントは平等主義があると思う。
権威がないから新興宗教的なキリスト教団体はプロテスタント系なわけです。
僕は病気を持っているから信仰した。
まあ、それはさておき信仰のお話。
散々書いてきたけど僕はある病気を子供のころから抱えている。
死ぬような思いも何度もしてきたし、周りの同病で死んだ人間を知っている。
人生は病気で壊滅的な被害を受けた。明日生きている保証なんてない。
死ぬ日は今晩かもしれないし、来年かもしれない。
信仰のきっかけ
僕はかつて、「そんな僕でも救われるような道があるのではないか?」と思っていた。
というか、ぶっちゃけ、助かりたいと考えていた。死にたくないし、無意味に死ぬのは嫌だった。
そこでとても親切にしている人を見てほあぁすごいなぁと素直に思って通い始めた。
それが信仰の源だった。まあこれが勘違いの源だったのだけどね。それで教会に行くようになった。
教会とはどんなところか?
教会というのは同じ信仰を持つ人たちの生活協同組合みたいなものだとおもってください。某創価学会とかに入ると就職とか結婚とかずいぶん斡旋してもらえるというのは、生活協同組合だからです。同じ方向を向いているので話も合うし、同じ信仰に根差していれば、価値観が似ているので格段に信用されやすいのです。
実際に僕もクリスチャンと結婚をしないかと言われたことが何度もあるし、就職の時にはずいぶんご迷惑をおかけした。
キリスト教的価値観
じゃあ、その同じ価値観ってどういうの?っていうとキリスト教なら一切をイエスキリストという人にゆだねる価値観だと僕は思っている。
良いことも、悪いことも、神様が差配していて、信仰的にきついこともあるかもしれないけど、神様が最後、死んだあと、救ってくれるんだよって価値観です。
でも、信じるためにはイエスキリストの生きざまを真似して、実践することはとても大事だと教えられる。そうすれば救われます。って。
勘違いしてほしくないが、僕は生活協同組合としての宗教を否定するつもりはないし、救いとしての信仰を否定はしていない。僕個人としては何か生活に指針があることはよい事だと思っている。
法律は最低限守るべき社会のルールだとすれば、宗教は社会の中で目指すべき指針ではないかな?となどと考えている。
何に幻滅したのか?
社会に守るべきルールがあるとしたら、それはそれでよいことだと思う。でも、
現実問題として病気が悪化した。
信じていれば救われるではないけど、救いを求めて入ったのに病気は悪化した。
良い人になろうとして頑張ったけど、知り合いは自殺した。
信仰しているから救われるとは思わない。
別に望んで自殺をしたかったわけではない、でも、病気とともに抱えているものを牧師の妻は悪魔のせいとふといった。
悪魔?何それ?だった。
そこで、キリストの生き方を真似しましょうという考え方に根本的にひびが入った。
いい子でいるとご褒美がもらえる。
だからいい子でいるということに違和感を感じたのだ。
そんなの何も考えていないだけ。
自分が必死になって戦ってきたものを「悪魔」の一言で片付けられるわけではなかった。そこらへんからちょっとづつ狂っていった。 つづく。