なぜ僕はキリスト教を棄教したのか?【2】【哲学編】
1の続き。
僕が考える宗教の思想の基本は
いい子でいるとご褒美がもらえる。
だからいい子でいる。
ということ。
キリスト教でも、仏教でも、イスラム教でも、神の与えたルールに従うということを大事にする。
そりゃそうだよね。生活協同組合としての宗教と倫理観としての宗教。
どっちも見えないルールに縛られて行動する集団の論理なんだから。
でもそれって自分の存在を殺してませんか?
そんなの何も考えていないだけ。
僕が定めたルールは極論すれば。
自分で考えて、自分の倫理に従う。最低限守るべき法を守る。
そうすれば別に他人の思想に従う理由はない。
僕は棄教して楽になった。
物理的に日曜日の朝教会に行かなくてもいいのもあるけど。
考えることが自由になったからだ。
例えば、騙されればやり返す。法律違反してないんだから。
最近も、カメラを善意で貸して横領された。で、しっかり賠償してもらった。
キリストは不倫の罪で石打の刑で死刑になる女性をかばうために、この石を投げていいのは罪を犯してない人だけだ。と言った。
キリストの言いたいことはわかる。誰もが多かれ少なかれ犯している。だから許せ。
でも、倫理に劣る罪をした以上、当時の刑罰に従われても文句は言えないはずだ。
博愛主義を演じても罪は消えない。罰を犯したら罰は罰せられる。
例えば、映画のstoning of soraya M。
不倫の冤罪を着せられた女性の話。これは論外。
女性は無実であるし、冤罪を着せた男たちは罰せられて当然。
でも、人のものを盗んだら、人から罰せられてもしょうがないというしかない。
僕は現在定職は持っていない。利息で生活している。
働かぬもの食うべからずと結構説教をされた。
例えば、大宅壮一賞作家の星野博美氏には露骨に倫理を言われ、捨て台詞の上に縁を切られた。明らかに不機嫌そうに言われたのではっきり覚えている。
氏の文章は総じて説教臭いので、切られた後やっぱり倫理を振り回すのね。と思った。
他にも倫理を振り回してくる人は多い。
いや。やはり。働く方がというのだ。
そりゃ、あんたの論理。
いやもっと言おう、その論理はあなたが従来正しいと思ってきた。
社会のルールを鵜吞みにした結果であって、あなたは一ミリも考えていません。
学歴がー、職歴がー。常識がー。
正直、そういうのダサい。
デカルト的な思想。合理主義。
彼らは社会の理性や論理を尊重し、特定の原理や原則に適合するものを受容する態度をとる。結局、なーんにも考えてないと思う。
なぜそのルールは正しいのか、経験した上で判断するべきだと思うのです。
そのうえで、僕は病気からくる自殺願望を自分の思想の一つに入れることになった。
悪魔というわけのわからない言い訳はしない。
死ぬときはすっぱりと終わりになるのだから結構!
これが僕がキリスト教を棄教した理由だったりする。